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現在、日本でも世界の多くの国でも、音楽が盛んです。ラジオ、テレビ、CD・・・消費される音楽は増える一方です。そして音楽を聴くだけでなく、演奏する人の数もますます増えています。とくに日本では、西欧ではすでに下り坂となっているピアノ産業がまだまだ盛んです。まさしく、明治以降100年以上のタイムラグで西欧の文明・文化を追っている日本の象徴的な事象です。 しかし、かつて生きていた人々と同じようにわれわれははたして音楽によって癒されているのでしょうか。量が増えただけで充実感は必ずしも比例していないように思うのです。音楽だけでなく音という点でも現代はむしろ過剰な音がストレスを生み出しているのも皮肉で残念なことです。 あるホームページで次のようなことを述べている方がいらっしゃいました。自分はベースギターと三味線をやっているが、どちらの世界でも「あれはうるさいだけの音楽」「あれは古臭いだけの音楽」という人がほとんどだ。なぜいいものはいいと感じられないのだろうか。というようなことが書かれていました。私はそのとおりだと思います。 最近リュートが静かなブームだそうです。ギターに比べて音量は小さくても繊細な音に魅力を感じる人が多いのでしょう。ギターと違ってペグはギア式ではなくバイオリン式。おまけに弦の数がバイオリンの4本どころではないからチューニングにも時間がかかる。こういう「不都合」が近代西欧では嫌われて、どんどん「合理的」な楽器に変身していったのだと思います。 なにやら抹香くさく聞こえますが、 「ひとつの音に徹し、そこに深い精神的(霊的)至福、魂の解放を得ることができるならば、音楽は僅かに一音のみで完結する、という普化(ふけ)尺八の概念」ということです。 |
| ●関連する書籍から引用も時々していきます。引用文中の太字は引用者によります。 この本(『アウシュヴィッツの奇跡』・引用者注)は、あの悪名高いナチスの強制収容所の幹部たちが、平然とユダヤ人たちをガス室で殺す一方で、バッハやモーツァルトの音楽を当のユダヤ人に演奏させて涙を流して感動していた、という恐ろしい実話を、そのユダヤ人音楽家自身が書き記したものである。 (p100) クラシック音楽の病理性は、その表現様式にも現われている。絵画のような空間芸術が享受者の空間を支配することはあり得ないが、時間芸術である音楽は、リスナーを時間的に縛りつける。それでもポピュラー音楽の場合はそれほど生活時間と異質な時間を作り出すわけではないが、クラシックは、端的に言って、メシを食いながら聞くことを許さない音楽である。その時間の支配性、呪縛性は強烈で、一般にポピュラーよりも拘束時間は長く、強固な構築性と大げさなダイナミクス、意表をつく展開などでリスナーを隷属させようとする。これは、多くのポピュラー音楽が、一定のリズムで時間に均質性を持たせ、リスナーとヴァイブレーションを合致させようとするのと対照的である。 ジンバブエのショナ人の親指ピアノのレコードの解説文に、ロバート・ガーフィアスはこのように書いた。 《東アフリカの音楽の多くは、繰り返しが多くて単調だと言われる。だが偏見なしに言うなら、繰り返しこそアフリカの音楽家が目ざすところのものなのだ。東アフリカ人たちの意見では、白人たちがしばしば病気になるのは食物を変えるからである。もし毎日同じ物を食べていれば、少なくとも何を食べて死んだかハッキリわかる、というのがアフリカ人の考え方だ。基本的に言って、反復と単調さは、アフリカでは構造的な弱さではなく、審美的な長所と見なされる。ショナのミュージシャンは、反復を、彼と徴収の間に未来可知性の連鎖を確立するための手段として用いる。ヴァリエイションはコントラストのために導入されるのでなく、せいぜい曲全体の雰囲気やスタイルにアクセントをつけるための、ちょっとした逸脱として行われる。変化は聴き手にほとんど気づかれないくらい自然ににじみ出て来る。そしてひとつの変化がすっかり曲になじんでしまうまで次の変化は出てこない》 これは、われわれとは大きく隔たるアフリカ人の時間間隔が生み出した彼らの音楽の特性であるが、基本的にこれと共通する思考を、多くのポピュラー音楽の根底に見出すことが出来る。そしてこれはクラシック音楽の抑圧的な時間とはまったく対照的だ。 クラシックが隷属を強いるのは時間構造においてだけではない。作曲者が演奏者に対して絶対的な優位に立つことは前に触れたが、シンフォニー・オーケストラなどを見てみれば、さらに細かい優劣の順位がはっきり目に入ってくる。即ち、客席ケツをむけて棒を振りまわすだけで音を発しない指揮者なるものが、演奏者の中では絶対的な権力者であり、楽員たちはその奴隷、道具に過ぎない。そして楽員の中でもひとりひとりに順位がある。つまりシンフォニー・オーケストラは、頂上に作甘曲者、その次にコンサート・マスター・・・とずーと来ていちばん下に聴衆を置く、直線的なヒエラルキーのシステムだ。そうした序列の最下位に甘んじることの代償として、クラシックの聴衆は、ポピュラー音楽愛好者に対する優越意識を手に入れるわけだ。 (中略) 一口で言えば、クラシック音楽家は権力者の手先にほかならず、クラシック音楽は大衆抑圧装置以外の何ものでもない。アウシュヴィッツの殺人者たちがクラシックを愛好したのは偶然ではない。( p226〜230) (『大衆音楽の真実』 中村とうよう ミュージックマガジン社) かなり挑発的で、クラシック愛好者を激怒させそうな文章ですね。でも私は同意します。これだけクラシック音楽至上主義の日本だからこそ、これくらいでないと解毒剤にはならない思っています。 ●西洋音楽は文(技巧)本位である。そして西洋の音楽はまったく静寂というものを忘れたかのように見える。音楽における静けさは、洋楽においては激動と激動との間に、そのコントラストを狙う意味でわずかに挿入されたサンドウィッチの程度にしか利用されていないではないか。「動的」とか「ディナーミッシュ」とかいう概念は、西洋人にとっては、もはや音楽の一つの様式を示す概念ではなく、音楽の理想を示す価値概念にまで引き上げられたかの観がある。静の音楽と動の音楽。その価値の比較は今は問題にする必要がない。このような大きな差別が問うよう音楽と西洋音楽とに存在することを、読者は明瞭に認識すべきであると思う。(p28) 即ち礼楽の目的は個人の感覚的満足ではなく、人類社会の調和融合という大理想を持っていたのである。言いかえれば、この礼楽思想は個人主義的世界観に立脚するものでなく、社会主義的世界観に立脚するものである。しかも芸術至上主義でなく、倫理主義ともいうべきものである。この主義によって作曲され、この主義によって演奏され、この主義によって干渉されるところの音楽が、近代西洋の個人主義や芸術至上主義の中に培養された音楽とその相貌をまったく異にしているのは、むしろ当然といわねばならない。 もっとも周知のように、西洋においてもピタゴラスによって代表される古代ギリシャの音楽観は、右の礼楽思想にきわめて類似したものであったが、それはルネサンス期の大作曲家パレストリーナを最後として、神の否定と唯物思想の台頭により、西洋近代の音楽は救い難い方向に突進してしまったのである。 変遷を発展と混同し、これを見当違いの拍手をもって迎えたことは、すでにパウル・ベッカー等の評論かも口を極めて力説しているところである。(p32) (『日本音楽の性格』 吉川英史 音楽之友社 ) この本をはじめて読んだとき、本当に「わが意を得たり」とひざを打ったものでした。ああ、自分の感じていることは間違いではないんだな、とはげまされた思いでした。そしてなぜ自分が弦楽器に惹かれるのかわかったように感じました。 音楽評論家の吉田秀和さんが、ご自分の体験として、八月の晴れた日の午後、軽井沢ででウェーベルンの音楽をきいていたとき、突然戸外から野鳥の声がきこえてきて、それによって自分がはいっていた音の空間に穴をあけられたような気がしたと書いていらっしゃるんですね。吉田さんはつづいてもし日本の音楽、邦楽だったらどうだろうかと問うて、伝統的な楽器や日本の声楽の発声、民謡の歌声といった音楽の音が、自然の音そのものではないにしても、自然とよくとけある響きであり、春の雨、夏の鳥、秋の虫、冬の風といった日本の自然と調和し、共鳴していると答えを出されているんです。ところがそうした日本の音楽を私たちは生活から遠のけて、もっぱら西洋の音楽に耳を傾けてきたわけですね。 (『日本人と感性 対話・音楽のトポス』 片岡輝 編 音楽之友社) 対談集ですが、とくにこの有賀誠門さんの部分はおもしろかったですね。 ウードやサズの音も「自然に溶け込む音」だと思います。 |