現在、日本でも世界の多くの国でも、音楽が盛んです。ラジオ、テレビ、CD・・・消費される音楽は増える一方です。そして音楽を聴くだけでなく、演奏する人の数もますます増えています。とくに日本では、西欧ではすでに下り坂となっているピアノ産業がまだまだ盛んです。まさしく、明治以降100年以上のタイムラグで西欧の文明・文化を追っている日本の象徴的な事象です。

 これほど音楽が日常生活に満ち溢れている現代であるのに、その音楽によって本当に生活が豊かになっている人がどれほどいるのでしょうか。
 ヒットチャートに象徴されるがごとく、日々消費される音楽はこの数年、ますます画一的になってきています。いわゆる「ワールドミュージック」が脚光を浴びた時期もありましたが、結局少なくとも日本では音楽の聞かれかたが大きく変わるということはありませんでした。
 バンドを組んだり音楽を演奏する人も多いですが、「楽しむ」ために音楽をやっているのではなく、「プロミュージシャンになりたいから」音楽を始める、という若者も少なくないそうですし、熟年層も「趣味もないし、ここらでピアノでも習おうか」と懸命にバイエルに取り組むという人も多いようです。またはある種の中高のブラスバンド部のように部員が運動部的なトレーニングに励む、という世界もあります。
 まさに百花繚乱、といった風情の音楽日本です。

 しかし、かつて生きていた人々と同じようにわれわれははたして音楽によって癒されているのでしょうか。量が増えただけで充実感は必ずしも比例していないように思うのです。音楽だけでなく音という点でも現代はむしろ過剰な音がストレスを生み出しているのも皮肉で残念なことです。
 
 近代西欧音楽に偏った学校音楽教育と、とマスメディアに溢れるのヒットチャート音楽が、あまりにも日本人の「音楽を聞く耳」の能力を下げてしまったように思います。本当に「音」を聞いているのだろうか、先入観を捨てて音楽に耳を傾けているだろうか。そんな疑問を感じることがますます多くなりました.。

 あるホームページで次のようなことを述べている方がいらっしゃいました。自分はベースギターと三味線をやっているが、どちらの世界でも「あれはうるさいだけの音楽」「あれは古臭いだけの音楽」という人がほとんどだ。なぜいいものはいいと感じられないのだろうか。というようなことが書かれていました。私はそのとおりだと思います。
 日本の琵琶ははるかな昔、ペルシアの楽器「バルバット」を起源として遠くシルクロードを旅してくる中で中国のピーパとなり、日本に渡来して琵琶となった、と言われています。だから琵琶とウードは親戚である、ということもよく知られています.。三味線もサズと血がつながっているだろうと言われています。
 世界の多くの音楽が共通点が多いのもこれまたよく知られたところです。話が大きくなりますが、楽器や音楽だけではなく、食べ物も世界中で共通点が多いですし、また実際につながりがあります。いくら日本の国粋主義者が「日本独自の伝統云々・・・」と叫んだところで、日本の楽器も食べ物も外来がほとんどです。むしろ琵琶も三味線も「サワリ」という雑音を付加したところに日本の独自性があります。もっともその雑音付加ということ自体世界中の民族に見られる楽器の共通点ですが。
 
 一番象徴的なものはピアノです。よく知られたことですが、「ピアノフォルテ」を正式名とするピアノは音量を求めてそれ以前のクラビコードやチェンバロから「改良」されたわけです。現代だったらいきなりアンプをくっつけて電気化すれば苦労はないでしょうが、当時はいろいろ工夫をしてさまざまな楽器を「大音量化」していきました。
 そして平均律の考案。これまた移調しやすいように、という「合理化」のためになされました。 
  まさしく近代西欧音楽は「合理主義」をバックボーンとして発達してきました。そこで切り捨てられたものは少なくなかったはずです。また、西欧の楽器を用いながらもその切り捨てられたものを苦心して拾い集めたのが、かつてのブルースやジャズだったのではないか、と考えています。それはおいおい今後語っていきたいと思います。

 最近リュートが静かなブームだそうです。ギターに比べて音量は小さくても繊細な音に魅力を感じる人が多いのでしょう。ギターと違ってペグはギア式ではなくバイオリン式。おまけに弦の数がバイオリンの4本どころではないからチューニングにも時間がかかる。こういう「不都合」が近代西欧では嫌われて、どんどん「合理的」な楽器に変身していったのだと思います。
 そんな「非合理的」な楽器が見直されるのは、近代西欧に対する疑念が意識・無意識を問わずあるからでは、と感じます。特に日本では明治以降、学校教育がクラシック音楽にあまりに偏っていたため、またポピュラー音楽(いわゆるJポップなど)でもまた、演歌でさえも日本の伝統音楽の感性とはかなりかけ離れた音楽だったため、日本の伝統的な「音を聴く耳」は失われてしまった、と考えています。極論すると、現代の多くの日本人が、ある程度のメロディアスなメロディーラインとスムーズなコード進行があるものだけを「良い音楽」と受け取っているようです。過去においてあれだけ豊かな「音」に対する感性を持っていたのに、です。げに恐ろしきは文化的植民地政策かな。

 それを考えると、ウードが中東でずっと生き残ってきたことには驚きを感じます。最近では彼の地でも西欧近代楽器に押され気味とはいえ、日本における琵琶の細々とした生き残り方に比べれば、それほど「特別」な存在ではありません。(まあ、三味線や琴などは習い事や純邦楽としてのマーケットがしっかりありますし、最近では津軽三味線や三線はメジャーですから、やや事情が異なりますが)。

 なんだかまとまりのないだらだらした文章になってしまい申し訳ありませんが、結局申し上げたいことは、そんな日本の伝統的な(=非近代西欧的な=世界基準では普遍的な)豊かな、音に対する感性はウードやサズを触ると蘇ってくるようにも感じる、ということなのです。ピアノの「ポーン」という一音だけが印象的に響く、ということはあるでしょうか。あまり考えられないことです。ところが琵琶ならあります。ウードでも可能に感じます。ギターも無理ではなさそうです。ポイントは、音色が単純ではなく、複雑だということでしょう。和楽器のようにわざと弦ネックに当たるように作って「サワリ」という雑音を付加する方法、シタールのようにドローン弦をたくさん付け、ジャワリ(サワリ)を付加して複雑な音色にした物、など様々な工夫がなされました。そしてウードは複弦で、<サウンド・ホール(響き穴)は3つあり、ラウンドした胴背面と組み合わせて、パラボラ型反響構造を持った3ウェイスピーカーの形をしている。2000年前に、すでにこのレベルに達していた古代ペルシアの科学には圧倒される>(『民族楽器を楽しもう』 若林忠宏著・ヤマハミュージックメディア刊  p75から引用)ほどの、工夫がなされています。これらの楽器はどれも近代西欧音楽の単純明快な(波形も単純)音色とは異なります。
 もともと、ピアノや管楽器に比べると、弦楽器は、弦を弾いたり擦ったりして発音し、駒から胴の共鳴をくわえた後、音を空中に伝える複雑な発音原理のため、他の楽器(ピアノや管楽器)に比べて、高調波が多く複雑です。弦楽器に特別な魅力を感じる人が多いのは優美な形もさることながら、やはりその音にあるようです。

 これまた極論すると、近代西欧の価値観は「少ないより多いほうがいいにきまっている」「進歩を当然と考える」「いわゆる合理的で純粋なものが好きである」と言えます。芸術に関してもそうです。いかに余分なものを削ぎとるか、ということは考えません。西欧文明全体の根本的メンタリティと言っていいでしょう。
 また、雑音性(これこそが実は大事なのですが)を忌避し、合奏やオーケストラのための一部品として徹底させた音色、というのも特徴です。ミネラルや数々の有用な「不純物」を取り除き、化学的に精製した「白砂糖」や化学物質とさえ言える「精製塩」が近代西欧音楽であるならば、海水から昔ながらの製法でミネラル分をたっぷり含んだ「自然塩」や「粗製糖」が非近代西欧音楽であると思っています。(エレキギターでディストーションをかけたりするのも音を歪ませて高調波を増やして複雑な音色にしているので、先祖帰りとも言えます)
 この数年、クラシック音楽においても古楽が人気を集めたりしているのも、身体(耳も脳も身体)が本能的に求めているのでは、と思っています。クラシック音楽、とくにモーツァルトあたりがアルファ波を出させる効果があり、癒しになる、と最近言いますが、それと似て非なる音楽が身体に及ぼす効果だと思っています。

 第1回は、日本伝統音楽で言われる言葉、そしてウードの魅力を私なりに表現した言葉で締めくくります。

       「一音成仏」(いちおんじょうぶつ)

なにやら抹香くさく聞こえますが、 「ひとつの音に徹し、そこに深い精神的(霊的)至福、魂の解放を得ることができるならば、音楽は僅かに一音のみで完結する、という普化(ふけ)尺八の概念」ということです。



第1回
   
●関連する書籍から引用も時々していきます。引用文中の太字は引用者によります。

この本(『アウシュヴィッツの奇跡』・引用者注)は、あの悪名高いナチスの強制収容所の幹部たちが、平然とユダヤ人たちをガス室で殺す一方で、バッハやモーツァルトの音楽を当のユダヤ人に演奏させて涙を流して感動していた、という恐ろしい実話を、そのユダヤ人音楽家自身が書き記したものである。 (p100)

クラシック音楽の病理性は、その表現様式にも現われている。絵画のような空間芸術が享受者の空間を支配することはあり得ないが、時間芸術である音楽は、リスナーを時間的に縛りつける。それでもポピュラー音楽の場合はそれほど生活時間と異質な時間を作り出すわけではないが、クラシックは、端的に言って、メシを食いながら聞くことを許さない音楽である。その時間の支配性、呪縛性は強烈で、一般にポピュラーよりも拘束時間は長く、強固な構築性と大げさなダイナミクス、意表をつく展開などでリスナーを隷属させようとする。これは、多くのポピュラー音楽が、一定のリズムで時間に均質性を持たせ、リスナーとヴァイブレーションを合致させようとするのと対照的である
 ジンバブエのショナ人の親指ピアノのレコードの解説文に、ロバート・ガーフィアスはこのように書いた。
 《東アフリカの音楽の多くは、繰り返しが多くて単調だと言われる。だが偏見なしに言うなら、繰り返しこそアフリカの音楽家が目ざすところのものなのだ。東アフリカ人たちの意見では、白人たちがしばしば病気になるのは食物を変えるからである。もし毎日同じ物を食べていれば、少なくとも何を食べて死んだかハッキリわかる、というのがアフリカ人の考え方だ。基本的に言って、反復と単調さは、アフリカでは構造的な弱さではなく、審美的な長所と見なされる。ショナのミュージシャンは、反復を、彼と徴収の間に未来可知性の連鎖を確立するための手段として用いる。ヴァリエイションはコントラストのために導入されるのでなく、せいぜい曲全体の雰囲気やスタイルにアクセントをつけるための、ちょっとした逸脱として行われる。変化は聴き手にほとんど気づかれないくらい自然ににじみ出て来る。そしてひとつの変化がすっかり曲になじんでしまうまで次の変化は出てこない》
 これは、われわれとは大きく隔たるアフリカ人の時間間隔が生み出した彼らの音楽の特性であるが、基本的にこれと共通する思考を、多くのポピュラー音楽の根底に見出すことが出来る。そしてこれはクラシック音楽の抑圧的な時間とはまったく対照的だ。
 クラシックが隷属を強いるのは時間構造においてだけではない。作曲者が演奏者に対して絶対的な優位に立つことは前に触れたが、シンフォニー・オーケストラなどを見てみれば、さらに細かい優劣の順位がはっきり目に入ってくる。即ち、客席ケツをむけて棒を振りまわすだけで音を発しない指揮者なるものが、演奏者の中では絶対的な権力者であり、楽員たちはその奴隷、道具に過ぎない。そして楽員の中でもひとりひとりに順位がある。つまりシンフォニー・オーケストラは、頂上に作甘曲者、その次にコンサート・マスター・・・とずーと来ていちばん下に聴衆を置く、直線的なヒエラルキーのシステムだ。そうした序列の最下位に甘んじることの代償として、クラシックの聴衆は、ポピュラー音楽愛好者に対する優越意識を手に入れるわけだ。
 (中略)
 一口で言えば、クラシック音楽家は権力者の手先にほかならず、クラシック音楽は大衆抑圧装置以外の何ものでもない。アウシュヴィッツの殺人者たちがクラシックを愛好したのは偶然ではない。( p226〜230)

(『大衆音楽の真実』 中村とうよう ミュージックマガジン社

かなり挑発的で、クラシック愛好者を激怒させそうな文章ですね。でも私は同意します。これだけクラシック音楽至上主義の日本だからこそ、これくらいでないと解毒剤にはならない思っています。


●西洋音楽は文(技巧)本位である。そして西洋の音楽はまったく静寂というものを忘れたかのように見える。音楽における静けさは、洋楽においては激動と激動との間に、そのコントラストを狙う意味でわずかに挿入されたサンドウィッチの程度にしか利用されていないではないか。「動的」とか「ディナーミッシュ」とかいう概念は、西洋人にとっては、もはや音楽の一つの様式を示す概念ではなく、音楽の理想を示す価値概念にまで引き上げられたかの観がある。静の音楽と動の音楽。その価値の比較は今は問題にする必要がない。このような大きな差別が問うよう音楽と西洋音楽とに存在することを、読者は明瞭に認識すべきであると思う。(p28)
即ち礼楽の目的は個人の感覚的満足ではなく、人類社会の調和融合という大理想を持っていたのである。言いかえれば、この礼楽思想は個人主義的世界観に立脚するものでなく、社会主義的世界観に立脚するものである。しかも芸術至上主義でなく、倫理主義ともいうべきものである。この主義によって作曲され、この主義によって演奏され、この主義によって干渉されるところの音楽が、近代西洋の個人主義や芸術至上主義の中に培養された音楽とその相貌をまったく異にしているのは、むしろ当然といわねばならない。
 もっとも周知のように、西洋においてもピタゴラスによって代表される古代ギリシャの音楽観は、右の礼楽思想にきわめて類似したものであったが、それはルネサンス期の大作曲家パレストリーナを最後として、神の否定と唯物思想の台頭により、西洋近代の音楽は救い難い方向に突進してしまったのである
変遷を発展と混同し、これを見当違いの拍手をもって迎えたことは、すでにパウル・ベッカー等の評論かも口を極めて力説しているところである。(p32) 
(『日本音楽の性格』 吉川英史 音楽之友社
 )

 この本をはじめて読んだとき、本当に「わが意を得たり」とひざを打ったものでした。ああ、自分の感じていることは間違いではないんだな、とはげまされた思いでした。そしてなぜ自分が弦楽器に惹かれるのかわかったように感じました。


音楽評論家の吉田秀和さんが、ご自分の体験として、八月の晴れた日の午後、軽井沢ででウェーベルンの音楽をきいていたとき、突然戸外から野鳥の声がきこえてきて、それによって自分がはいっていた音の空間に穴をあけられたような気がしたと書いていらっしゃるんですね。吉田さんはつづいてもし日本の音楽、邦楽だったらどうだろうかと問うて、伝統的な楽器や日本の声楽の発声、民謡の歌声といった音楽の音が、自然の音そのものではないにしても、自然とよくとけある響きであり、春の雨、夏の鳥、秋の虫、冬の風といった日本の自然と調和し、共鳴していると答えを出されているんです。ところがそうした日本の音楽を私たちは生活から遠のけて、もっぱら西洋の音楽に耳を傾けてきたわけですね。
(『日本人と感性 対話・音楽のトポス』 片岡輝 編  音楽之友社)


対談集ですが、とくにこの有賀誠門さんの部分はおもしろかったですね。
ウードやサズの音も「自然に溶け込む音」だと思います。